曖昧な世界の住人

何も分からなくても前に進める。一般的な思考習慣では理解から次の理解へと順次運ばれる。理解が判断の基準になっている。果たしてこれは正しいのか?単なる思考習慣に過ぎないのではないか。人生は未知の闇の中を歩くようなもの。人間の認知にしても穴ぼこだらけで、正解と不正解を混ぜ合わした混沌としたものである。現在の正解は未来の正解とは限らないのだし、およそ正しい判断が何であるかなんて知る由もない。我々は深い謎のなかにいるのにその事実に気付かない。どのように見えるかということは分かるが、あくまでそのように見えるものとしか言えない。曖昧な世界の住民であることを忘れてはいけない。狭義の世界にしか正解といわれるものは存在しない。広義に捉えればあらゆる事実は虚偽になる。理解の可能なものから理解の可能なものへと進む思考に疑問をもつ。恐ろしい弊害は理解の範囲外を無視して評価しないばかりか、価値の可能性さえも注意しないこと。分からないから前に進まないのは大きな過ちである。未来の価値とは現代の理解力の外部にあるはずだから、分かったことを基準にして判断するならば見えるべき将来の価値を見失うであろう。価値の共有のためにはいったん理解されなければならないが、価値と理解はまったく無関係である。相互に独立しており一切の関係性はない。理解可能な価値と理解不可能な価値が存在する。いまのところ前者の価値しか知り得ないのである。