通勤批判

頭を使うのが大変というが、それは他人の頭の法則で考えるから躓いているのだろう。自分流に考えられれば、全然苦痛にはならない。独自の思考世界を広げればいい。苦痛は、他者のシステム上で動いているから生じる。自身の思考習慣を確立してしまえば、敢えて他人の土俵で、相撲を取るに及ばない。ただ、自分流が正しいとは思っておらず、常に間違うという自己批判の構えでいる。

思考はその人の個性であり無意識の習慣である。ここでの思考とは日常やるべきことに気を回す短期的な思考ではない。

労働の疲れを取るためだけに休息するのと、ゼロベースで考える創造的な時間を取り入れるのとでは、5〜10年で驚異的な差がつくのは間違いない。ラットレースから脱出するには、これしか方法がない。習慣のほんの少しの差がのちに大きな結果になる。意識的な習慣で貴重になるのは時間である。時間の価値を知らずしては、後ろ向きに走ってるのと同じで、謂わばマイナスの行為をしているに等しい。

時間に関して思うのは、電車やバスに乗りながらスマホを使っている人口が増えたことによる当事者の意識である。疑問は、わざわざ移動して通勤しているのだという認識があるのだろうかということ。会社で仕事をするために、バスや電車になんの考えもせず、ただ運ばれているように映るのは気のせいか。なぜなら本来仕事は、仕事場に移動することではなく、あくまで仕事そのものを遂行するのが目的であるはずだから(職種にもよるが)。

繰り返すが、おおかた通勤は無駄。仕方がないにしても無駄と断言できる。仕事をするために会社に行くのはいま常識だろうが、徐々に非常識になる可能性が高い。いずれ仕事はどこでもできるようになる。