曖昧な世界の住人

何も分からなくても前に進める。一般的な思考習慣では理解から次の理解へと順次運ばれる。理解が判断の基準になっている。果たしてこれは正しいのか?単なる思考習慣に過ぎないのではないか。人生は未知の闇の中を歩くようなもの。人間の認知にしても穴ぼこだらけで、正解と不正解を混ぜ合わした混沌としたものである。現在の正解は未来の正解とは限らないのだし、およそ正しい判断が何であるかなんて知る由もない。我々は深い謎のなかにいるのにその事実に気付かない。どのように見えるかということは分かるが、あくまでそのように見えるものとしか言えない。曖昧な世界の住民であることを忘れてはいけない。狭義の世界にしか正解といわれるものは存在しない。広義に捉えればあらゆる事実は虚偽になる。理解の可能なものから理解の可能なものへと進む思考に疑問をもつ。恐ろしい弊害は理解の範囲外を無視して評価しないばかりか、価値の可能性さえも注意しないこと。分からないから前に進まないのは大きな過ちである。未来の価値とは現代の理解力の外部にあるはずだから、分かったことを基準にして判断するならば見えるべき将来の価値を見失うであろう。価値の共有のためにはいったん理解されなければならないが、価値と理解はまったく無関係である。相互に独立しており一切の関係性はない。理解可能な価値と理解不可能な価値が存在する。いまのところ前者の価値しか知り得ないのである。

手紙の命令

その母親は片手に乳児、もう片方に捨てるはずの手紙を持っていた。だが、ごみ箱に落とされたのは乳児の方だった。はっと意識がはっきりすると、驚いたことに「これでいいのだ」と誰にも聞こえない声で独りごちた。そうしてくしゃくしゃの手紙を広げてみる。読み返せば「これでいいのだ」の意味が明瞭になり安心するのであった。のちにこの乳児は善意の者に拾われ大切に育てられた。手紙は運命に点火を施したのであった。

集中あるいは取捨選択

濃度というものがある。肝心な部分とそうでない部分がある。資源とエネルギーは限られている。ならば力を集中投下するところとそうではないところに分離したほうがいい。分散は抑制のないばら撒きであり、集中の対極にある。方向を固めずしてその方向には進めない。一貫性を保つためには、限られた資源を一点に集める必要がある。時間は非情にも待ってはくれない。四つある。一つは自分のどこに集中するか。二つは、世界認識の限度を確定すること。三つは自分と他者のどの部分に重点を置くか。四つは、以上の三つの関係性に限界を設けること。成すためには限度をあらかじめ決めておかなければならない。

ムンク的なもの

私は機械ではないし、歯車でもない。機械と競争なんかしない。「しない」という人も実際はコンピュータと共存しつつ、電脳社会に呑み込まれながら透明の罠にとらえられている。身動きが自由にならない。ネットという蜘蛛の巣に捕まっている。だから言葉にならない痼りのような異物がつき纏い、それが身から剥がれることはない。必然の結果としていい知れぬ不満と不確実性で覆われた未来に漠たる不安を抱く。ほんとうは心の底で声ならぬ声でもって叫んでいるんだ。聞こえないだけで。狂ったバイオリンがいくつも無調音楽を鳴らしている。無数の山羊の鳴き声。馬の嘶き。まったく聞こえないだけなのだ!機械と仕事をすることに慣れてしまった人間は、どちらが主でどちらが従であるのか、時間をとめて省察する価値は十分ある。時間をいったん止めてみるというのがなかなか難しく、かつ機会すらないことがほとんどなのだが。

「商品の死」及び仕事をしている気分

労働力は商品にその姿を変えるが、仕事の見返りは商品の死、すなわち消費によってでしかない。消費とは欲求を満たすものでなくてはならず、有益で役に立つものである必要がある。この方向を無視した仕事はどんなものであれ商品の死である消費に結びつかないから、換金不可能となって仕事が宙に浮いてしまう。宙に浮いた仕事は自己満足の域を出ず、仕事のための仕事という他なくなる。卑近ながらやはり「売れる」ということは死活問題なのである。単に仕事をやっていれば良いのではない。仕事内容の方向が間違っていないか反省する努力を怠ると、仕事をしている気分だけになってしまう。